今日,関西の方で地震がありましたね。
大阪北部地震なんて呼び方をニュースでは使っているみたいです。
大きな地震のニュースを聞いて,私が一番に思い出すのは東日本大震災です。
今でさえ当時のことを忘れかけていて・・・忘れないためにもこれを機に,ブログに東日本大震災のこと,そして大阪北部地震のニュースを聞いて思ったことを綴ろうと思いました。
たぶん戯れ言ですし,私に価値はあっても他の方々にはこの記事を見たところで価値がないものかもしれません・・・・すいません。
ですけど今日ばかりは失礼!!!!お許しを!!!
まずは東日本大震災のことを。覚えている限りのことを書こう。
ぐちゃぐちゃだけど地震が起きた時のこと
3.11当時,私は中学生で今と変わらず福島県に住んでいました。
確か中学校で卒業式があって学校が早く終わったんです。
卒業生ではない私はさっさと家に帰って・・・なにをしてたんだろう。たぶんゲームか本を読んでたか。
ただ6人家族なのにそのときは家に私一人しかいなくて・・・しばらくして地震が来たのを覚えてます。
「うわ!!地震だ!!大きいな!!」って思って・・・それがだんだん「え,長くね?」に変わって・・・家のお皿をしまっていた戸棚から皿が落ちるようになって・・・・家の中にいるのが怖くなって外に出て。
そうしたら近所の人たちがたくさん集まっていて・・・近所の人と話しているうちに揺れが収まってそれで家の中に入ってみた。
そうしたら観葉植物が倒れて土が巻き散らかされてるわ皿が割れてるわで家の中がめちゃくちゃになっていて。しかたなく靴を履いて家の中に入ったのを覚えています。
ガチャガチャな家の中にいるわけにも行かず外にいると私の祖父と祖母が当時小学生だった妹を学校から連れて帰ってきて・・・それから家の中を少し片付けて一安心して。
後になって,妹を迎えに行っていた祖父祖母が信号が付かなくて大きな幹線道路がわたれなかった(妹の小学校から家に帰るには絶対に通らないといけない)から,手旗を挙げてクラクションならしながら無理矢理突っ切って来たって話を聞いた時にはよくやるなぁって思ったし,でもそうでもしなきゃみんな必死なんだからだめだよなっても思いました。
でもその間も余震は定期的に起きていて地震にはうんざりしてましたね。あと雪が降ってたのを覚えてる。
水と電気が止まっていたのに気付いたのはその後の話。ガスはプロパンだから使えるのに水と電気が止まっちゃった。
正確には確か水は夕方か夜に使えなくなった気がする。水が止まるかもってことで機転を利かせた祖父が水をお風呂場に貯めておいた。なのでトイレの水はそれでまかなってた。
あと近所の人が灯油を売ってくれたのがありがたかった。灯油を運ぶ?仕事をしている人みたいで,灯油を運ぶ車(タンクローリーの超小さいバージョンみたいなやつ)に積んでいた灯油を売ってくれて,その当時まだ少し寒かったから灯油だけで動くストーブをつかって暖をとってた。ストーブの上にヤカンやら食べ物やらを置いて暖めて食べれたしストーブ最強だった。
食べ物も母親が仕事している近くのスーパーとかである程度買ってきてくれたからなんとかなってた。
不便だったのはお風呂に入れなかったことくらいか・・・パソコンが使えなかったのも不便だったかもしれないけど,当時携帯とか持ってなかったから電気が使えない生活はすこし楽しかった。
後覚えてるのはその日の夜と原発のことくらいかな。
地震の夜のこと
ご飯は家にあったご飯の残りとかをストーブの上で暖めたりして食べた。茶碗とか食器にラップを被せると洗わなくていいんだよって確か祖母が教えてくれて,頭いいなって思った。
地震の夜は家族みんなで寝た。私の父は仕事で家にいないのが当たり前だったから,父以外のみんなでリビングに集まって寝ました。
いつもは一人で寝てたし,新鮮だった記憶がある。電気が付かなかったけどろうそくはあったしストーブも付いてたから明るくて暖かくて,確かラジオを付けっぱなしにしてた。何かあると大変だからって。
今思うとあれが本当の家族団らんなのかもしれない。なんもすることがないからいろんな話をしたし(何を話したか忘れたけど・・・),不謹慎だけど余震が起きる度にラジオの情報を頼って「震度当てゲーム」もした。私と祖父がだいたい震度をピタリと当ててた笑。
そんな感じだったから余震は東日本大震災が起きた時から数え切れないくらい起きてたけど怖くはなくなってたかな・・・・住んでるところは福島県の中通り(福島県を分ける呼び方で,県の真ん中の方ってことです)なんだけど,地盤が固いみたいでもしかするとそれで他のところより揺れは少なかったのかも。
原発のこと
これが一番怖かった。余震の恐怖よりもこれが一番怖かった。っていうかぶっちゃ東日本大震災まで福島第一原子力発電所って場所がどこにあるのかも知らなかったし・・・
まさか中でメルトダウンが起こってるとか思わなかったし・・・
水素爆発したってニュースを聞いた時は怖くて怖くて仕方なかった。
当時私はガンダムとかが好きで,ガンダムSEEDに出てくる大好きだったフリーダムガンダムが核で動いてるっていうのもあって,パソコンで核とか兵器とかの変なサイトばっかり読んでた。核融合炉だのツァーリボンバーだの水爆だの・・・
だから福島原発のニュース,特に爆発したっていうニュースがあった時は本当に怖くて・・・変な知識はあったから,近所のスーパーに買い物に行くって言う私の母と妹に家から出ちゃだめ!!って必死に説得したのを覚えてる。
あれはほんとに怖かったなぁ。どのタイミングで電気とか水道が復旧したのか覚えてないけど・・・でも電気がつながってテレビが映るようになってからの方が原発のことは怖かったのを覚えてる。
想像してたよりも事故が大きかったから・・・・
東日本大震災で思ったこと,覚えてることはこんな感じかな。。。
あんまり覚えてないんだなぁ。学校が再会した後のことは覚えてるんだけどなぁ。
校庭の除染をしてたり,その様子をロシアだかなんかのテレビ局が取材に来てたり,あとプールが屋外だったから水泳の授業が中学校ではなかった。あと甲状腺ガンが心配だったなぁとかそこら中で除染が行われてたなぁとか。あとはこれは今もそうだけど,福島県では天気用法とかのあとモニタリングポストの値を読み上げるコーナーがあったりする。そういう変化は感じたなぁ。
大阪北部地震にニュースを聞いて思ったこと。
これは大阪北部地震だけじゃなく,熊本地震の時とか・・・ともかく大きな地震とか自然災害があった時にも思ったことです。
一番は,俺は大人になったんだからこれからは俺が守る立場にならなければ!ってこと。
東日本大震災の時には私は中学生でした。当時も今も「自分はもう大人!!」だって思ってるけど,でも21歳になった私から見たら中学生の私はまだ子供。
21になって,少し身長が伸びたけど,それ以上に何かを考える時に目線が少し上がったように感じる。
自分のことだけじゃなく周りのことも考える様になった。先のことも考える様になった。
だから今回の大阪北部地震の話を聞いて,次に何かあった時には私がみんなを助けようと思った。
東日本大震災の時,私の周りの大人たちはみんな気丈に振る舞っていたんだと思う。大人が不安になっちゃ子供も不安になるもんね。
私もそれを見習おう。そして備えあっては憂い無し。いついかなる時も有事に備えよう。と思って(は)いる。
今度は私がみんなを助けようなんてことを言ったけど,私は普段からそんなこと考えて生きてるのか?
生きてない。就職活動に明け暮れ,卒論に追われるただの大学生,それが私。
いやぁ情けねぇ。本当に情けねぇ。
ほんとにだめだなぁ俺って。
考えてるだけじゃだめなんだよなぁ。行動しなきゃ。
このブログに書いたのは誓いのためなのかもしれない。ここに書いたら誰かしらの目には触れる。触れなくても誰かに見られてるんじゃないかって思える。そういう意味でも誓いというか・・・碇というか・・・
これは今日思ったこのことをこの記事に置いておいて,そして忘れないようにするための碇みたいなものです。
頭のどこかでは常にこのことを考えているようにするために!!
関西の皆さんはきっと不安な時間を過ごしてるんだと思う。
怪我した人とか・・・・それから亡くなった方もいるみたいだし。
Twitterでは水道管が破裂して噴水みたいになってる動画とか・・・いろいろみたし。
早く普段通りの生活が出来るようになってほしいです。本当にそれを一番に願ってます。
でも地震の被害があったのにふざけたツイートもあってそれはほっとした。
ふざける余裕がある人もいるんだって。もしかしたら気丈に振る舞ってるだけなのかもしれないけど・・・
でもこれは不謹慎だとも思うけどそう思った。
自然災害に備えて,いざというときには落ち着いて行動する,それがきっと日本人の美徳。
普段の私は,何かあった時のために車のガソリンは半分以上に保つ!バッテリーを持ち歩く!位しかできてない。
来年からは社会人。格好いい社会人になるためにやることはたくさんだ!!
がんばんなきゃな!!
よぉうし,やるぞぉ!!!
今日,本当は小名浜にできたイオンモールに行った感想を書こうと思ったんです。
でも今日はそんな雰囲気ではないと思うし,思うところもあったのでこんな内容で書きました。
イオンモールについては明日か明後日あたりに投稿すると思います!!
以上あかパンダの戯れ言でした!!
お付き合いいただいてありがとうございました。
ここまで読んでくれた人がいたら本当にありがとうございます。